「退くに退かれぬ 田原の嶮」
4月12日の百条委員会の報告書の手渡し式のとき、マスコミの方から次のような質問を受けました。「報告書の中に《不信任相当》とありますが、不信任と採決されたとき、議会が解散になることも想定されてますか」と。
私からは、「◇議会自らが解散したくて不信任を採択するわけではない。◇市長の言動があまりにひどいものなのでレッドカードを突きつけるための不信任採決となる。◇そのうえで、市長は解散権を持っているため、そうなることも想定している。」とお答えしました。
ただ、本当のことを言わせていただければ、ここまでの状況に至るまでに、市長自らが辞任するとかの形で決着を付けたかったです。「不信任」は、いわば議会が市長に対して行う「最終兵器」です。このボタンを押して、素直に市長が辞任すれば問題ありませんが、市長が議会を解散させたりすれば、本来行う必要のない選挙を市民の税金を使って行い、その間、政治的な空白を作り(コロナ禍の第四波が来ているこの時に)、そして何よりも市民の中の分断を際立たせてしまいます。
そんなボタンは、誰も押したくはありません。言ってみれば、やむにやまれぬ決断です。
今の私の胸の内は、西南の役の時に伝令となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎を歌った「田原坂(たばるざか)」の歌の心境です。
blockquote〈引用〉
“田原坂 (たばるざか) 「熊本県民謡」
雨はふるふる 人馬はぬれる
越すにこされぬ 田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな 美少年
退くに退かれぬ 田原の嶮(けん)は
男涙の 小夜嵐”
熊本城の北方約十八キロメートルにある田原坂は、「西南戦争」の最大の激戦地でした。一見なだらかな丘陵ですが、当時はこの辺りで大砲を載せた車が通れる唯一の坂であり、戦いの急所でもありました。1877年(明治10年)の2月、西郷隆盛を押し立てて決起した薩摩軍は、政府軍が籠城する熊本城を包囲します。そのため、博多から政府軍の援軍が南下し、迎え撃つ薩摩軍と、ここ田原坂で激突したのです。
明治政府軍の大砲や鉄砲が、雨が降る如く薩摩軍を攻撃してくる。そんな悲惨な戦場を「雨はふるふる」と表現しています。そんな中、伝令となった三宅伝八郎が、必死の思いで激戦の戦地を駆け抜ける様子を「越すに越されぬ田原坂」と、歌っています。
「右手に血刀 左手に手綱」は、私たちで言えば「右手に市民の期待、左手に議会の団結」となるのでしょうか。
27日は、「退くに退かれぬ」険難の瞼を堂々と勝ち越えて、誇り高き池田市議会の正義を満天下に示したいと願っています。